2015年12月23日水曜日

月刊群雛・16年01月号レビュー



 今回の群雛はやばい。

 どうやばいかというと、




 つまんない。




 なんですか、これ。




 私に余裕がないのかと思ってちょっとで調べると、方法に「節制」の逆位置が出た。慎重に、とのこと。

 確かに慎重にならざるをえない。


 でも、このつまんなさは正直、私にとっても群雛レビュー書き始めて最大の試練だと思う。

 それぐらいつまんない。

 正直、躍動感も書きたいというエネルギーも熱も、全く不足してる。




 実は、ここまで褒めて来たことを真剣に後悔するほど、ひどく書き手みんなの力の出し惜しみがあるように思える。

 これが群雛だと、私は思いたくない。




 雛なんだから雛として必死に、貪欲に書こうよ。

 下手でもいいから。その懸命さが一番の魅力だったのに。

 出し惜しむほどの技量は、私をふくめて、みんなないのは承知していたはず。



 たしかにセールス的にはしんどい。それはわかる。

 でも、その出口が普通の雑誌になることだとしたら、まあ、それは必然だし、止められない。

 とはいえ、その普通の雑誌にするには力量があまりにも不足してる。

 このままじゃ、どうやっても、どっちを選んでも、いい結果にはならないよ?

 上手くなってきてても、正直、力量はついてきてても、まだ「誇れるほどの技量」はまだみんな、私を含めて、少しもないんだよ?

 雛は惜しみなく書くしかないんだよ?



 すごく悲しくなった。

 私も含めて皆、猛省が必要なレベルだと思う。




 群雛の目的、目標がこれでは見えない。

 どうしても厳しく言わざるをえなくなる。

 私は、ほんと、この号を見て、「悔しくて死にそう」だ。

 お勤めに行ったり、他の仕事しながら、なんとか冷静になろうとしても、どんなに冷静になっても、この「悔しくて死にそう」な気持ちは、どうやっても変わらなかった。

 だから、もう、私が炎上しようが嫌われようが、そんなこと、どうだっていい。

 この群雛に込めた愛で、結果炎上し嫌われるなら本望だ。

 それぐらい群雛と雛を愛してきた。

 結果私は嫌われても、また私が一人にもどるだけだ。

 一人になることは寂しいが、怖くはもうない。所詮は天下吾一人だ。

 そこから書く。

(結果この号の群雛が売れないかもしれないと危惧したけど、群雛がこのままいくよりはマシだと思う)




巻頭コラム


 すみません。マンガは新産業にはなりません。新産業になるとしたら、それはマンガの形であってもマンガではない。

 産業というものの定義が私と決定的に違うようだ。

 マンガは結果として産業になっても、産業を目的に書くものじゃない。それでは読者を消費者としてしまう。そこにあるのは創作と読者の健全な関係ではありえない。

 だいたい今書いてるこのマンガがどれぐらい売れて、なんて計算しながら描いて、描けるもんなのか? マンガってその程度のものだったの? 完全に創作と軸が違うんじゃないの?

 これではマンガ家をブロイラー扱いするだけだ。アニメーターを生産して使うシステムと同じだよね。どうにも魅力的とは思えない。
 ましてインディーズはその産業の論理のサブシステムではない。インディーズ作家の戦略ってのは、そういうものと真逆じゃないかと思ってたけど。

 まあ、お金もらえればそれでいいんだろうなあ。でもそうやってそんなもらえてんの? 貰えてるなら、もうさらに次の段階に行ってるはずだよね。

 もともと持ってた意見だけど、こういうところ、私、あんま好きじゃないの。ごめんね。文芸なりマンガやるなら教養学部か文学部にはいろうよという考えだから。即戦力になりたいなんて思ってる人はその時点で甘いからね。

 そして私は群雛編集部からしたら外部の人間なので、失礼承知で書く。

 このレベルの独善的な記事をよその雑誌巻頭に載せることに、書き手は自分で疑問を持たなかったのか? 持ってやってたらひどいし、持ってなかったらさらにひどい。

 だいたい、書き手として恥ずかしくないか? 失礼を私も言っているけど、この書き手も雑誌に対して失礼じゃないか?

 なにか反論があるなら群雛側ではなく、この私へ下さい。群雛編集部に私は関係ないから。ただ時々投稿させてもらってるだけだから。群雛編集部の中のことも知らないし。
 でも、はたから見て、こう言わざるをえない。私が言わなくても、普通の本読みだったらこの記事の独善ぶりに眉をひそめると思う。

 何回かこういう独善的な巻頭ゲストコラムがあったけど、我慢してきた。
 その分今回の方は運が悪い、損かもしれないのはすまないが、もう看過できなくなった。

 雑誌の巻頭記事がその雑誌の趣旨をほとんど無視してるのはどういうことなの? 読解力ないの? 無視しなくちゃ書けない立場なら、なおさらなんで書いちゃったの?

 しかも電子雑誌は紙の本よりはじめから読むしかないんだよ。そのすごく大事なとこにこの独善を書いちゃった意味、わかってる?

 私がこう書くけど、私より察しのいい人はどっさりいる。
 そういう人に、ああ、あそこの人ってこういうことをするんだ、と思われるリスク、承知してます?

 いろんな理由があるかもしれないけど、読む側にはそう見えちゃうよ。これで決定的にはじめからどうしちゃったの? になってる。

 故意でなかった可能性はあるとしても、それなら雑誌づくりの側に問題がありすぎる。




望まれぬ新人


 どうにも文章が不安定。

 しかもこの作者のもともと苦手なSFへの挑戦の意欲は買いたいのに、SFとして大事な要素が足りなすぎる。

 あまりにも研究不足すぎる。そしてイメージの型変換も甘い。

 正直、賞を狙うにはまだまだ練度が足りない。モチーフが見えない。

 もう書いちゃうけど、まず物語の軸として主人公はこのアンドロイドに惚れたんだよね? でもそれなのにこのアンドロイドを好きになる理由があまりにも薄弱すぎる。作者は惚れてるかもしれないけど、主人公がどう惚れたかが伝わらない。

 惚れるに値する十分な条件が作れてない。童顔で足が細くて胸が大きくて背が高くてレトロな衣装来て、って、それで惚れちゃったの? ここでしっかり惚れないとあとの話が連鎖的に成立しなくなるんだけど、女性を惚れるってのはそういうことなのか? 女性を惚れて、愛おしんで、運命に抵抗するのがこの話の根幹でしょ? それなのに童顔で……なの?

 女性を惚れるってのは、もっとシンプルな理由でもいいの。説明するとその感情が冷めてしまう。ビビビ婚じゃないけど、人を惚れるのに理由はもともといらないんだよ。要素を説明すればするほど魅力がなくなるのが感性というものじゃないかな。そして説明ではなく描写で魅力を出すのが文芸じゃない?

 そして惚れて興奮するにしても興奮するステップを端折りすぎている。まあ、そういう主人公だというならそうなのかもだけど、表現の起伏としての盛り上げがあまりにも不足していると言わざるをえない。

 インタビュー読んで思った。新人賞ってのは全力で書くものだ。そし全力を出す習慣がなければ、運良く賞とっても後が続かない。そういう人に賞は与えられるべきではない。それでも賞を与えるなら、その賞がその程度のものってことになる。
 そしてその程度の賞にはその程度の作家。そしてその作家が審査員になり、ますますその程度の賞になる。

 本当にそれでいいの? あの「贖罪」(2014年5月~9月号連載)でミステリーの妙味を見せてくれてたし、15年11月号の「99%の真実と、1%の嘘」でものすごくうまく怖がらせてくれたのに。
 いったいどうしちゃったの?




一小路真実は興味がない


 悪いけど、私は一小路真実に興味がなくなった。今回はそう。

 好きな世界はわかる。でも、それに影響されすぎてないか。
 これまでの本来の良さがかなりスポイルされてしまっている。影響を消化しきれてない。

 書を捨てよ。街に出よう。キャッキャウフフver1やキャッキャウフフver2は来てください。 私はただの少女漫画のノベライズに関心ありません。

 少女マンガだろうがなんだろうが、面白く読みたいのが読者だし、そのためにはドラマがいる。でも、少女漫画の手法にこだわって肝心の仕掛けもドラマもモチーフもすっかりぼやけている。すごくふわふわしてる感じ。

 しかも、雰囲気を作るために配置している言葉がどうにも邪魔くさい。以前だったら一つのイメージに向けて効いていく表現が、あまりにも脇道を向きすぎていて、本筋を集中して味わえない。

 モチーフがあるなら、それに向けて逆算していこうよ。仕掛けや謎を提示しても、どうにもぼやけすぎてしまう。

 あと、主人公をボケ役にするのは、セオリー的にもしんどくなる一因。読んでいてこういう子なんだ、って理解する以上にイライラしてしまう。

 ほんと、どうしちゃったの?

 正直、いくら校正が良くても、借り物のモチーフからレンダリングされた結果がソースでは本来のキャッキャウフフもなにも出ない。これではキャラがはしゃいでるのに、読み手の中に入る頃にはつや消しになってしまう感じ。

 あと、いろいろ興味ない人に読み手が興味が惹かれるかというタイトルも問題といえば問題。

 ええっ、いまさらそこ? と思うかもだけど、1話めと違いすぎるのですごく気になってしまう。読者の関心の集中を誘導制御できてないってことだよ。1話めの時は、全く気にならないほど誘導されてたのに。1話めを読み返して比較するとよく分かる。

 ほんと、どうしちゃったの? としか。

 私がこれまでこの作者の魅力として読んできたのは、実はこういう二次創作ともオリジナルとも付かないものだったのか?

 群雛創刊の頃からの文句なしの学園モノの名手が、いったいどうしちゃったの?

 モチーフ!




夏のかけら


 結局動きがまたなくなった。最終回直前の一番ドラマが動くべき回でこれはないだろう。これでは次回最終回はめちゃめちゃペースを上げて逆転するひどいドタバタになるか、敵前逃亡しかない。限られたチャンスである群雛への掲載を一体どう考えているのか。

 技量不足が深刻。まったくドラマになってない。描写のつもりだろうけどほぼすべて必然性の不足した説明でしかない。

 いくら売れようが反響があろうが、技量としてまったく足りないのは事実だと思う。

 正直、つまんない。ドラマの作り方、ドラマに必要なものが欠けすぎている。我慢して読んできて、改善と逆転を望んでたけど、ここに及んでも逆転はなかった。いったいこれでどうするの?




男は死ぬまでヒーローさ!


 もうやんなっちゃった話。それはそれでいいけど、イメージの型変換が甘くて、構築が見えにくいために肝心の仕掛けとモチーフがぼやけている。要するにどうにも雑い。

 これを書きたくなる気持ちはわかるけど、こういう話をするための慎重な研究の不足と、実力の出し惜しみが感じられる。

 あと、考え込ませるには方向が違う。モチーフがジレンマであれば考え込ませられるんだけど、でも書いてるこのモチーフはディストピアなんだよね? それを意識してるのか疑問になっちゃうようにインタビューが蛇足になってる。ディストピア小説の目標は考えこませるものではないと思うけど。

 そして、嫌になって書くのでも、読者の上をいくようなさらなる洞察による嫌さの演出でないと、それはただの作者の愚痴になる。

 もともと、ただの愚痴以上のものが書ける作者だと思うのに。どうしちゃったの?

 今の日本の悪循環はわかるし、出口も見えない。でも、それにしてはあまりにも短絡的では。

 正直、掘り下げが足りなすぎる。これまで幾つもの短編ホラーの名手なのに。




Twitterテクニック


 いつもながら実用的。今回買って、これに救われた感じ。

 って、どういうことなんだ。あまりにも。




らせんの本棚出張版


 色んな本をよく読んでるな、というのはいいとして。

 感想はいいけど、書評や批評、分析するには圧倒的に練度が足りないのを露呈してる気がする。

 結果、どうも魅力的な紹介になってない。熱が冷めてる。冷静な分析と熱のない分析は違う。

 下手でもいいから、すごく熱のあるレビューが読みたかった。うまいものなら世の中にいくらでもあるから、下手でも熱く語って欲しかった。熱さが全然足りなくて、しかもうまくない。凡庸。

 雛としての本分は必死に成長を求めることなんだけどなあ。

 挑戦したいのもわかるし、努力をしたとも思う。でも、圧倒的に足りない。

 書評として趣味の問題かと思ったけど、読み返してもどうにもいい感じがしない。

 時間かけて書いたはずなのにどうにも。

 書き手が圧倒的な凡庸さという怪物を倒すのに使える武器は、思い入れ、熱だけなんだよ?

 好きなんだったら、もっと熱くなってほしい。下手でもいいから。

 この著者はまだ、「うまくやれる」ほどうまくないし、とはいえ未だに若葉マークでいられる段階でもないのを、あらためて自覚してほしい。

 今熱を込めて、工夫をこらさないでどうするの。

「うまいつもり」でいちゃダメだ。これを下手な私が言うと「おまいう」だけど、承知で書く。

 どうしちゃったの? せっかくの群雛の『希望の星』がこれでは、あまりにも悲しいよ。

 「あいどる・とーく」(15年9月号)のピチピチと跳ねるような文章、「ふたりのブルペ」(15年5月号)の冒険心はどこにいっちゃったの?




我が国王


 説明に終始。ドラマが見えない。そのうえ固有名詞を出しすぎてて整理しきれない。資料材料の消化不良を起こして整理が足りない。それを自覚してるのはまだ救いがあると思いたいけど…。

 キャラクターを活かすには通常1人原稿用紙100枚近くかかるのに、キャラが多すぎるし、多いキャラに魅力をつけられていない。キャラが多かったらストーリーの動きを見せてキャラ多すぎを感じさせないしかないのに、動きも見えない。これでは単なる資料からのメモの段階。これでは今後に期待が持てない。

 立て直してほしい。この状態は資料を使って描いてる状態じゃない。ただ資料に飲み込まれてるだけだ。

 歴史物でもモチーフに全てが従属するのがドラマの鉄則だ。モチーフのために資料を使うのだ。資料を並べてもそこからドラマは決して勝手に発生しない。

 いったいどういうドラマを書きたかったの?

 モチーフをもう一度捉えて、過不足なく資料を読み取るバランスに直さないと、どうにもならない。

 この人もどうしちゃったの? あの「マタギ話」(14年10月号)で見せてくれた描写力もどこ行ってしまったのか。


隠れ恋


 モチーフ不明。整理も創作としての熱もない。困った。

 中間小説にしてもあまりにも面白みがない。本当に見せるべきものを見せないで、ひたすら浅いところを滑り続けている感じ。体裁が整う以前、モチーフ持つ時点でモチーフが全く見えてないと思う。

 いったいあなたは何を書きたかったの?


週末夫婦、猫を飼う


 優しい感じ。雰囲気は悪くないし、モチーフも守られている。救いかもしれないが、まだ磨き方が足りない気も。でも群雛本来の中間小説としての良さはある。今回のなかでの救いかなあ。穏やかさはよく出ている。狙い通りかも。
 今回、本来の味が出てるのはこの作者だけだ。でも、この作者も、その味に満足する訳にはまったくいかないと言わざるをえない。

猫じゃらし


 よくわかんない。君の替わりは君の代わりではないのかなあ。語句的に同じなのかもしれないけど、この場合は代わりでは?生まれ代りとか生まれ変わりとか。

 掌編だからこそ、モチーフとイメージの形変換と整理がすごく必要なのに、どれも甘い。

 いらない説明も多い。モチーフに従属しない説明が多すぎる。フェイク感も強すぎるし。

 モチーフは世界、ってのは掌編でやるのは無理。ちゃんと絞り込まないとしんどいの。


表紙


 唯一に近い救いのいい出来なんだけど、表紙絵の上にかかるテキストのデザインが悪乗りしすぎている。

 表紙絵さんがこんなに頑張ってるのにこれはないよ……。それとも打ち合わせ不足?




総括


 こんな悲しい群雛のクリスマスとなるとは。

 正直、箸休めにもならないほど、格段に良くない。


 雛が雛であることの自覚を失ってどうすんの。

 雛としての意義を全うできなければ、雛の次の成鳥には絶対なり得ないよ?

 その雛の次を目指す雛だから、魅力のある雛なんだよ?

 群雛に書く時点で自分は雛だと自覚して全力を出さないと。それだけが我々の武器なんだから。

 そういう雛じゃなければ群雛にくることもなく、とっくにメジャーデビューしてるはず。

 そして、我々はインディーズなんだから、インディーズとして、自由な冒険心と創意工夫への渇望を失っちゃダメだよ。なくしたらどこまでも奈落の底に落ちるよ?

 もしかして、年末で忙しいからこうなったのか? でもそれは理由にならないよね。一応掲載枠争奪あったんだよね。それに、私もこの号にも書きたかったけど、レギュレーションで我慢したんだよ。そういう人もいるんだよ。

 それでそういう人から勝ち取った掲載枠で、枠とってからあとで忙しくて、ってのは、ないよね。



 ほんと、泣きたくなった。ゆえに私もこうやってこれまでの方針を転換するしかなかった。


 私はどうなってもいい。

 でも、みな、もう一度、噛み締めてほしい。あの群雛の創刊の辞を。


 我々は雛なんだよ。


 雛が必死で成鳥を目指してるように見えないのは、正直深刻すぎる。


 関わったみながもう一度、創刊の辞を噛み締める時だと思う。



追記

 このあと創刊の辞をまた見て、ああ、と思った。

>我々は雛の群れだ。
>けれども、巣の中で親鳥をただ待ち続け、
>餌をくれと口を開けて上を向いているだけの雛ではない。
>少なくとも、自分の両足で大地に立っている。
>空へ飛び立とうと、両の手を懸命にばたつかせている。
 (群雛創刊号「創刊の辞」より)

すごく、今の私の気持ちにも沁みる。

 自分の両足で立ってるか?
 懸命にばたつかせてるか?

 これがすごく、私自身にも、沁みるのを超えて、ササるのです。

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