いや、関係者が乗るとか、私が乗るわけではないんですけどね。
私は周遊列車をこれまで作ってきました。
80年代末、まだ九州ブルトレも元気に走っていた、とはいえ退潮気味なのがが危惧されていた頃。
たしか「鉄道ジャーナル」だったと思います。海外には「周遊列車」があるよと。
私はその紹介に大変感動しました。なにしろ、私にとって、幼いころ、寝台列車とは周遊列車であるべきだったのですから。上野発の夜行列車に乗っても、秋田の親戚の家に行くのは余録でしかなかった。私にとって夜行列車に乗ることそのものが一番の楽しみで、目的だったから。その結果、親戚の家で「早く帰りたい」と泣いて親戚を困らせたのを覚えています。だって子供心に秋田の古い家は馴染みはないし暗いし怖かったのです。
そして高校時代。鉄道模型を本格的に作り始めます。小学4年のときにNゲージを初めたのですが、何度か中断しました。転居もあったし。でも高校時代は鉄道模型と鉄道にドハマリします。それは拙著「鉄研でいず」にもあるとおりです。あれに近い日々でした。
そこでその記事に出会ったわけです。
1991年、私はNゲージで周遊列車を作り始めました。94年には作り始めていました。牽引機はEF66 100番台。20系や10系、14系や24系寝台客車をちゃんぽんにしていましたが、その時からブドウ色に金メタルテープという外装は変わっていません。
JR各社をまたいで走る周遊列車。運転するのは架空鉄道・北急電鉄。神奈川に路線を持ちながら、JR各社の線路を借りて北は北海道、南は鹿児島までの日本一周クルーズを実現する。それが「ブラウンコーストエクスプレス(BCE)」です。
そしてEF66とは別に、独自牽引機を開発することにしました。JR東海区間を通過するための特殊旅客専用機関車です。
タネ車はKATOのEF81。フライホイールが搭載された初期のものです。
これは2001年7月1日の友人たちとの運転会で披露したその自作周遊列車「ブラウンコーストエクスプレス(BCE)」の写真です。今あるデジカメ写真の中で一番古いBCEのものです。牽引機はこのころEF500と呼んでました。最後の旅客牽引機というつもりで作りました。ボディはプラシートから手で切り出して作ったものです。足回りも手を入れてEF81からかけ離れたものにしました。
続く電源車は20系の電源車を交直両用にしたというものでした。
そして大窓インペリアルスイート車。これは90年代中期の組成初期から作ってました。
大窓作るのにアクリルを削って作ってました。
しんどくて二度とやるまいと思いました……アクリルは馬鹿みたいに硬いので。
客車ビュッフェのオシ16もつなぎました。
内装もないGM板キットでしたが、内装作ったり、そのあと室内灯つけたりと
いろいろがんばりました。
在来線用のダブルデッカー食堂車も作りました。
カシオペアE26系のダブルデッカー食堂車が登場するのは1999年。
それより数年先でした。
オリエントエクスプレスを意識して、シャワーカーならぬ
バスルームカーも作りました。
連接式で両端は3軸台車を自作。
めちゃめちゃ凝ってたけど上手く走らせる腕が私にこのころなかった。
そして最後尾は20系を改造した展望車。
これは車体を何度も更新して今に至ります。
この時のは屋根が外れて内装がボディと一体の古いKATOの製品から作ってました。
内装をやり直すのにもとの内装削るのがしんどかったのを覚えてます。
昔だったんでテールランプもついてなかった。
2000年4月に書いたウェブページにはこんなこと書いてた。
鉄道復権
まあ、『瀬戸』『出雲』がサンライズエクスプレスに置き換えられて、飛行機よりも遅く出発して飛行機よりも速く到着するダイヤを組んだと言うけれど、でもその結果乗客の睡眠不足が奪われちゃかなわんわな。当然近くのマイナーな駅に引き上げて『寝坊しても安心』のチェックアウトサービスにすると思う(え、しないの? そんなあ(;_;))。
ともかくJRグループの最大の財産は線路です。長い長い線路、どこまでもどこまでも走る線路。こんなに稠密に鉄道が走っている国は世界でも少ない。
そして通勤通学は少子化でもうこれ以上の需要増は望めない。
とすればお客を海外から連れてきたらどうでしょう。古都京都、文化都市大阪・神戸、大都市東京、富良野の自然、日本海に沈む夕陽、紀伊半島・太平洋に昇る朝陽。そして火山灰降る鹿児島。こんな観光資源を持った国だもの、海外からお客を呼ぼうよ。
と言うわけでブラウンコーストエクスプレスはそう言う発想のもと生まれたわけです。
(打ち消し線は2017年になって入れた。2000年当時、ここ間違えてたのね)
1991年当時、サンライズエクスプレスもなかった。サンライズエクスプレスは1997年6月にプレスリリースされたわけだから。
転居して結婚。
Nゲージは続けますが、でも急曲線の小さなレイアウトしか作れず、
BCEはしばらくお休みしました。
楽しいミニレイアウト時代でした。
まだ九州ブルトレも走っていました。2007年。
上野駅13番線でも寝台列車がバンバン夜に向けて走っていきました。
それを見るうちに、BCEが復活します。
最後尾の展望車も2代目に車体更新します。
今度はテールランプやテールサインが点灯します。
そして2008年、KATOのカントつきカーブレールを購入。
本格的にNゲージ長編成の運用を復活させます。
BCEの動画で一番古いものです。2007年12月。
だんだんエスカレートして、
こんな新宿駅1/150も作ったりします。でけえ。
大きすぎて列車が見えないのは大誤算でした。
2008年には自動改札も導入してた。
BCEもどんどん増車して、結果、牽引機を増強することにしました。
2代目のEH510と名付けた機関車を作ります。
そして、多くの仲間ができました。2010年。
震災の後に夫婦で乗った寝台特急「あけぼの」。2011年5月。
この年の1月、「ななつ星in九州」の構想が発表されてました。
北斗星も見ました。上野駅13番線。
ペーパー製無塗装Nゲージ模型も研究しました。
増強されゆく北急電鉄。
2011年6月、BCEの第2編成、ファンタジアコーストエクスプレスも就役。
こんなドームカーも作りました。
こんなに拡充。
編成はここまで来ました。
2013年、「ななつ星in九州」運行開始。
「トランスイート四季島」計画発表。
2014年5月、「トワイライトエクスプレス瑞風」のイメージ初公開。
2013年、「ななつ星in九州」運行開始。
「トランスイート四季島」計画発表。
2014年5月、「トワイライトエクスプレス瑞風」のイメージ初公開。
そして、2016年。
ブラウンコーストエクスプレス就役25周年。
念願のJAM出展。
そのあと、次世代の周遊列車を計画します。
計画が進み、
建造していきます。
そして、
周遊列車「あまつかぜ」が就役します。
周遊列車擬人化ネタのある、
「鉄研でいず」なんて小説もはじめました。
いろんな縁で、2017年、こんな雑誌も出しました。
というわけで、ついに。
この雑誌をもって、周遊列車に会いに、上野に行きます。
上野駅。
13番線はこうなっていた。
そして、
やってきたのが、「トランスイート四季島」。
出発準備をしています。
この絵が撮りたかった。
ステマというよりダイレクトマーケティング。
そして、「四季島」は発車していきました。
実に26年前に始まっていた周遊列車が、こうして現実に見られました。
鉄道の旅よ永遠なれ、
寝台列車よ、永遠なれ。
その26年前のからの思いが、ここにつながりました。
いろんなことに、ありがとう。
万感の思いです。
この本も、周遊列車も作れて、見られて、よかった。
ありがとう。
あと、残ってるのは、私が実際に乗るだけ。
たぶん無理だろうけど。
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