2016年2月7日日曜日

ヘリベマルヲ「悪魔とドライヴ」を読んで。

悪魔とドライヴ | 公式サイト


ヘリベマルヲさんは、群雛2014年05月号「砒素と携帯、ロックンロール」で拝見して以来で、その後「KISSの法則」(同07月号)、「ガラスの泡」(同10月号)、「悪魔とドライヴ ビッチェズ・ブリュー」(同12月号)、「フーチー・クーチー・マン」(同15年04月号)と群雛経由で拝見してきた作家。

 なかでも「悪魔とドライヴ ビッチェズ・ブリュー」を拝見した時、ああ、これは作家として一つの到達点、とはいっても作家の一生としては経由点ではあるのだけど、まずその大事な頂に達するための大事なモチーフにたどり着いたな、という感じがあって、ここからどう書き進むか、と期待していた。

 でも、15年は04月号以来群雛ではなかなか拝見できず、正直、うーむ、と思っていた。

 でもそれが今回「悪魔とドライヴ」という本としてその結論を出したという感じで、その途中からちょっと声をかけてもらって、プレビューリリース版から最終リリース版まで拝見させていただきました。




 で、学園モノっぽいけど、独特の個性が出てたのが「ビッチェズ・ブリュー」を読んだ時の感じだった。あのときは、ただの学校の話じゃないだろうな、とまず思ってた。あのころの群雛は学校の話が多かったけど、違う臭がしてよかったのね。

 でも、ほんと、そこから「しっかりよく掘り下げたなあ」という感想。

 あのとき期待して、ほんとうによかったなあ、と思う出来になっている。

 ちなみにビッチェズ・ブリューってのは調べるとどうやってもビッチェズ・ブリューしか出てこなかったりするけど、実はスラングもスラング、訳すと「淫売の醸造した媚薬」なんてもんだったりするらしい。もともとはジャズ・トランペットのマイルス・デイビスの1970年のベストセラーアルバムの1曲めとのこと。うん、ここまでで音楽疎い私にはお腹いっぱい、と言いつつも、読んでみると、なるほどなあ、言い得て妙だなと思うタイトルだったのが「ビッチェズ・ブリュー」だったのね。

 たしかに初めて見た時、そう言うだけの独特の色気があった。で、読みながら「ああ、これ、ヤバイなあ……」と思ってた。正直。だって県立高校の女性生徒と国語の先生で、しかも結構匂い、それも夏で高校生の体臭がするなんて描写がすでにしっかり生臭いわけですよ。しかもその国語の教師はウイスキーとジャズとタバコと文庫本が好きと来てる。

 ああああ、これは危ないなあ。もう私なんか読みながら「教育委員会は問題の教諭を懲戒解雇とするとともに事実関係を……」なんてNHK地方局ニュースのアナウンスが予感として聞こえてしまうわけですよ(ヒドイっ)。危ないなんてもんじゃない。もちろん往年の「高校教師」なんかは生物の先生だったけど(しかも実際母校の先生で教え子と結婚した人がいたりする)、でも国語でそれかー、と色んな意味で危険な香り、だったわけですよ。

 でも、どこかこういう舞台装置を作ったところで、実際それでどういう劇が描かれるかというのはほんと、力量次第。とはいえ群雛で拝見した作品で問題意識というか書くための燃料はあると思ってたし、筆力も十分あるので、はたしてそれが存分に発揮できるか、とワクワクしながら読んだのがこの「悪魔とドライブ」の本編だった。




 で、読んでみると、ともかくどっしりと、それでいながら現代の文学シーンが、リスカしてるよって自撮りでブログ書いて自己顕示しちゃう女の子みたいのからツイッターだのなんだのでざわめいてるだけの連中、さらには総合出版社の編集者までがたった250円の「Q」という謎の著者の電子書籍でつながって描き出される縦軸に、横軸に生々しいエピソードがどんどん織り込まれていく物語装置が狙いどおりに効いているのね。

 リアリティとかリアルとか、そういう次元ではなく、もうしっかりと世界が生きてる感じにできてるので、はじめ感じた危なっかしさがこの世界の中では、こういう文芸作品には必須のスリルに昇華されているのがすごく楽しい。

 私の読書量が圧倒的に足りないので比喩がワンパターンで申し訳ないけど、ウンベルト・エーコ「フーコーの振り子」と狙いが近いかもしれないなー、と思いつつ、とくに私には絶対書けない種類の作品なので、すごく興味深いし、面白い。

 電子書籍であることがすでにその物語装置としてすごく生きてるのがいいし、物語がどんどん結末に向けて走り出していく様子は特にこの本が電子書籍であるということと絶妙に内面が外面の相似、外面が内面の相似のような、思わず「うまいっ」、と言わざるをえないフラクタルみたいな仕掛けになってるのがいい。

(インタビュー見るとSFの文字が。うん、良いSFって昔、こういう要素あったけど、ほんと、あのころSFやらなかったからこれ書けたんだろうなと思う。SFで消耗しなくてよかったよ……この著者)


「フーコーの振り子」には「マル自」作家として自費出版作家が出てくるし、その自費出版作家をめぐってのいろんな「あちゃー」と思うエピソード、そして最後には猟奇的な結末まで待ってるという満艦飾だったけど、この「悪魔とドライヴ」は、エーコがもっと若いうちに電子書籍をめぐって、今あっちこっちでがたがたになってる物語の世界に出会っていたら、こう書くかもしれないな、と想像してしまうほどの満艦飾の書きっぷりだなと感じた。エーコは今84歳なので、タイムリープしないとこうは書けないと思う。正直、今のエーコがちょっと悔しがるんじゃないだろうかと思ったぐらいの書きぶりと思ってしまった。

 ほんと、読んで楽しかったけど、「フーコーの振り子」と同じで、何度読んでもああ、なるほどな、とまた思うところがあるのがいい。長さとしては比べると短いけど、でも読み応えはこれに直接記述されていなくても、読者は自然と符合しちゃうイメージで補完される感じで分厚くきている。

 読み終えて、「電子書籍界のサム・スペード。頑なに信じて勇敢に罪を犯せばいいんですよ!」という言葉が浮かんだ。

 本来の出版ってのはそこだよね。そういうところを狙い撃ちしてるのがすごく痛快だった。




 ちなみにこの「悪魔とドライヴ」の最後の仕上げ段階でFacebookでこの本の「製作委員会」なるコミュニティにお呼ばれしたんだけど、やってみてほんと、おおー、と思うことが多かった。(コミュ自身は群雛と独立して存在してるけど)

 私はほとんど何もせずにリリース前の原稿読ませてもらって、端っこの方で、ほー、面白いなーと思ってただけだけど、やり取りを垣間見てると、Facebookというツールにこういう活用法があるんだな、とすごく感心した。

 これは群雛のアプローチとまた別方向なので、どっちがいいとはいえない。どっちも一長一短なんだよね。でも、内容面について集団でちょっと考えたりして、それでいてそのうちの一つを著者がブレずに選んでいく様子とか見てると、本質的には群雛の編集作業と似ている気がする。それも多数決で決めてるわけじゃなくて、著者にそれぞれ参加しているメンバーがそれぞれの得意を持ち寄って提示して、著者を助けたり、逆に参加者が助けられたりしていくのがまた面白い。

 確かに編集という絶対的なものが必要な「雑誌」と、著者という絶対的なものを軸にした「本」だとアプローチは違うけど、現代ではどちらも当然ありうるものだと思う。

 集合知とまでは行かないかもしれないけど、ウェブ上でこういう作業を進めていくというのはすごく効率的で、しかも面白かった。作家として書いていくうえで、迷いそうなところを委員会のみんながうまくアシストするような。とはいえこれはアシスト側もされる側も力量がないと、すぐ迷路に入ってしまうので、うまくマッチングできてよかったと思う。




 前回から私は「インディーズ作家としての市民権獲得」とか吹いちゃってるんだけど、まさにこれもその一環だと思うのね。大きな資本はないけど、創意工夫さえあればすごく面白いものが作れて、それに携われるという。

 もちろんそれにはそれぞれがしっかりしてないと簡単にただの烏合の衆になり、現実の前に各個撃破されてしまうけど、でも今回の「悪魔とドライヴ」の委員会方式に集まった人々はそれぞれにスキルフルだし、ポリシーも持ってる。だからこうやって発売されるとこまでこれたと思う。

 もちろんこれも大きな資本がやる気出してこれやったら、全部まるっとこの優位は持って行かれてしまうような予感はしている。資本って怖いからねえ……。出版社が最後まで手放さないのは金融機能だし。

 正直、私の方は自分で試行錯誤しながら、勝てないなーと思って、私の場合はそれがとうとう確信に変わった。どうやっても私は勝てない。時間がなさすぎる。

 でも、この試みは、着実に出版と物語の歴史に一つのページを作ったと思う。みんなすごいよ、ほんと。




 といいつつ、この縁も(私の場合は)群雛の創刊があってのことだし、これからも群雛を軸にした縁で、いろんな試みがなされていくと思う。

 というか、これこそ私が群雛に見た未来なんだよ。変わり続けるけどほんとうの意味で最先端、ってところ。

 群雛もレギュレーション変わって2号目があと1ヶ月ぐらいで出る。そっちにも期待してる。

 ほんと、群雛がこういうライバルではないけれど、違ったアプローチを生みながら、競うようにやっていってセルフパブリッシングってのがどんどん進化していくって……すごくいい時代になったなあと思う。



 読みながら、未来って、こういういい未来もあるんだなあ、と改めて思ったりしたわけです。


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