今回はとくに上っ面の流し読みするともったいない作品が揃ったと思う。パラパラ見てそれでおしまい、にする読書が良い読書かというと、それだと改行と空改行バンバン入れてスッカスカの小説が一番になってしまう(うわ私の作品それになりかけだわー、と反省)。むしろ作りこまれた作品にどっぷり頭を浸して楽しむ号が今回の号だと思う。
前回の号とはその点で対照的な感じ。前号がカーッと熱く興奮してその興奮のまま、うっかり雑い感想を書いてしまい、レビューをアップし忘れてしまうほどの号の真逆、じっくり読みこめば読み込むほどやみつきになる味わいが楽しい号だと思う。それってスルメ? いや、アタリメです。ここんとこ注意。
あと、ここ数号の群雛の方向に「うーむ」と思ってた人がいたら、必見。群雛はただの電子雑誌ではない幅の広さを持ってることがよくわかると思いますよー。
今回、実は一回、初見だけでレビュー書いちゃって、あちゃ、好みに偏りすぎてしくじったなー、と思ってそれをボツにしました。レビュー書くのは難しい。まだまだ しゅぎょう が たりない。でも、それは私が焦って「好み」という遮眼革かけちゃってたから。
今回、実は一回、初見だけでレビュー書いちゃって、あちゃ、好みに偏りすぎてしくじったなー、と思ってそれをボツにしました。レビュー書くのは難しい。まだまだ しゅぎょう が たりない。でも、それは私が焦って「好み」という遮眼革かけちゃってたから。
ほんとにあとからあとから良さがじわじわ何度も来ます。
では掲載順に。
うぐぐ、改ページの位置を気にして小説の本づくりをできるのは偉い作家先生と凄腕編集さんの組み合わせの時だけだよう……。大昔はそういう本作りをできたけどね。私でさえそうだった。でも、だんだん「メール添付で月曜までに上げといてね」で、ゲラが戻ってきて、訂正入れて、気づかないうちに本屋に並んで、なんとそのあとに見本刷りが届くという状態に。ブワッ(絵文字略)。京極夏彦先生とかはInDesignで組版まで自分でやってたという伝説あるし、講談社文芸第三(当時)の唐木厚さんなんかは目の前でうちの新書800ページの折り数と割付を全部暗算してた。目の前でザクザク「これ扉は左に揃えますね、折数でここが足りない分はここで貸して、あ、ここは4文字詰めればこっちがひっこむので……」って人間InDesignやってたもんね。あの頃は凄い猛者がいたけど、今はテキスト流し込みの時代だもんねえ。じゃあ電子書籍でいいじゃん、読みたくなったらその場で買えて読めて寝っ転がって仰向けでも読めるぜ、みたいな。
省みると、書籍の世界は、その良かった頃の伝説という貯金を、少量多点数出版という自転車操業でどんどん食いつぶしていって、その間に全体として、読者をけっこう失っているような気がするのね。それを取り戻すにはいい電子書籍を作るために頑張るしかないんだけどね。
本屋さん? 悲しいけど、私を育ててくれた個人経営の書店は、ほぼ全滅しちゃったよ。あるのはチェーン店という、POSレジで個人情報抜いて流用しまくる某T*UT*YAみたいなもんしかなくなるという。しかもそれが図書館までやってしまうんだから、もう紙の本は悲しい状態。オンデマンド出版にも食われるしかないけど、装丁も造本もデザインもこれからはオンデマンド化するしかないと思う。
あと、オープン原理主義だけど、これ、結局慎重にやらないとオープンハイイコトダ、って乱暴になっていってどんどん反知性主義になりかねないのでそこら辺要注意だよね。ハエがたかりそうなバイラルメディアと、そこに集って電凸と称して暇つぶしにゲームのように人を追い詰めて吊るそうとするバカども見てると、とても情報社会が便利さを担保とは思えない。結局、文明ってのは変化しても、便利さと不便さのバランスはかわんないんだよね。自動車の発明が自動車事故を発明しちゃって、その上で車輪の再発明したらその再発明で事故も発明しちゃうのよー。
と、オレオレ的につい読んでいると語りたくなるコラム。語るためにも読む価値あると思う。いい話の呼び水にもなってる。
この著者頭いいわ。頭良すぎて暴走してるんだと思う。だから楽しめるかどうかは読者を選ぶと思う。でも、そういう文学はないと絶対にダメなんだよね。だって毛沢東語録じゃあるまいし、誰もが読むようなものをみんなが書かなくちゃいけないなんて、何そのファシズム、だと思うし。
ほんと、段落長っ。登場固有名詞多いっ。正直読みやすいとはいえない。それなりに頭のなかで物理メモリ割り当てて読まないとしんどい。
でも、そのしんどさを超えると、仕掛けが見えてくる。思えばこの著者の最初の頃の作品からこの傾向があった。02月のスラップスティックなスペオペ「ヴェニスンの商店」から始まって04月スラップスティック「ガッテンの箱娘」、07月スペオペ「十五商人漂流記」、08月メカもの「鋼鉄の羊」ときて最後にこの擬人化モノときたので、この人は書くものの守備範囲が結構広い。そして広い守備範囲で書くもので、とくに読者に媚びすぎないのもありようだと思うし、それもまたここまでくると、一つの風味なのでいいのだと思う。
この話、いろんなところをバッサリ削りまくったら、芯にはすごく温かみのある藤子F不二雄先生風味の秀逸なSFの芯が残ると思うんだけど、それはニワカで凡庸なドラえもんファンの誰かが書くでしょう。この人のオリジナリティはそんな浅いものではないと思う。むしろこの暴走風味が味わいだと思うのね。で、それこそ文学の風味だと思う。
あと、『タイムマシン』と『もしもボックス』は同じものだというのが私のオレオレ宇宙論『アメノミナカ』なので、すごくすっと読めた。私としてしんどく読んだはずなのにすっきりと読了しちゃうのも風味として面白い。
この人の場合もまた損を少ししてる気がする。これ、固有名詞ちょっと使えば、すごくすっきりすると思う。でも、それをしちゃうと、この雰囲気、味わいは壊れてしまうのね。仕掛けだけ楽しむなら普通に固有名詞使っちゃっていいんだと思う。作中の固有名詞も作ってもいいはず。根拠はと言われちゃったら『え、民明書房の『**』で有名じゃないですか、やだなー』って言っちゃえばいい、ってズルを考えてしまう邪悪な私なんですけどね。
でも、それを『これじゃ規範批評だろがー!』と自分にツッコミを浴びせつつ読むと、味わいと仕掛けの楽しみ、そしてモチーフの良さがすごく出てくるの。
正直、初見の時は途中までの雰囲気にすっかり撹乱されて、全体の仕掛けに気づくのが遅れて『ええっ!』と読み返して、『……なるほど』と思うしかなかった。
で、ちがっても、おおー、と思わされる楽しさ、鮮やかさがしっかりある。納得の出来。
今思ったけど、この前半の舞台となる特急列車、自由席とラウンジの合造車となると、なんとなくモデルとなった特急はアレじゃないかなとか、となると行く先はアソコで、と思えてしまうので、うかつに固有名詞を出したらそれはそれでよくないと判断したのかな、と思わされてしまう。フィクションなんだけどね、ああ、あるかもなあと思わされる風味。うう、よく出来てます。案外ラウンジと自由席が一緒に1両の中にある特急って少ないんですよー(いらん鉄道マニアの詮索ですまん)。詰めていっちゃえば、もしかして:実は丸椅子じゃない? みたいな(ヒドスギル!)
でも、決してずれているわけではないのね。むしろシャープにモチーフが出てる、というか、独特の風味とモチーフの継承が生きていると思った。これも語りたくなる作品。
周波数が違っても、いいものはいい。というか、周波数の違いを超えていいと思わされるんだから、周波数合う人はどんだけ楽しく読めるだろうかと思うと、私のほうの好みの狭さのほうが残念になるという。それぐらいいい。
そして、ゆっくり読むと、あとからあとからじわじわと来る味がいい。エンディング、たしかに、「残り香」だよねえ、ほんと。この風味は周波数違ってても、私も納得するところ。昔の私の師匠の匂い、原稿用紙とタバコの匂いを思い出しちゃったよ。すごくカッコよくて素敵。
ブラックらせんさん、というほど前宣伝しただけに、期待も大きかった。SNSを使った小説のプロモーションという社会実験だなーと思ってた。で、それで作品が『ズコー!』だったらとゾッとするけど、まあこの著者ならそれはないだろー、とおもったら、そのとおり、とても楽しく読めました。
ほんと、フォント1文字1文字がピチピチ跳ねるような文章の風味が良い。また仕掛け、ネタ、ギミックなんかもちゃんとあちこち先行作品かなーと思ったSFのネタをバンバンときっちり決めてくるのはさすが。SFのテクノロジー描写も書きすぎずに書き込んであって、とてもいい風味。
なるほどねえ。よく出来てる。惚れ惚れするほど。秀逸です。この字数でこの内容はみっちり作りこみ感のあるSFだし、アイドルというモチーフもSF的によく反映して書ききっている。うまい。とてもよい。エンディングもいい日本風味のSFの良さ。でもこういううまい話を思いついた瞬間って、私もそうだけど、『ぐへへ、思いついちゃった!』とすごくうれしくなるよね。その瞬間はやっぱりホワイトではなくブラックらせんさんなんだと思う。私もそういう時、『うひひ』と黒米田になっちゃうんだけどね。
アニメのいいキャラデザインの人が『キチク!』と仲間内で呼ばれてたりするのもそういう邪悪要素があるんだと思う。それはものづくりには必須なんですよ。
扉絵もとても良い。これも独特のキャラクターの跳ねてる感じが出てる。挿絵さんとしての読解力を遺憾なく発揮してると思う。素敵。
おおー、話がどんどん動き出したの感。前回は時代の空気を出して下地作りだったような。その下地があるからの味わいが、事件の動きに依存しない物語の独特の空気になってると思う。で、事件もしっかり物語をこれから動かしていく力を持ってると思うし。これ以上凄惨にするのはやっぱりキチクな黒米田の考えであって、全体のまとまり、作品の質としてはこれが最適解だと読み返すたびに考えぬかれてるなと思う。まさにスルメ、じゃなくてアタリメなこの号の感じを思わせられる。TVドラマ好きと言ってる作者の往年の昭和ドラマ風味がよく出てるなあとも。
読書の楽しみってのは、うっかりすると、早く先を読ませろ! と、『ストリップショーで先をとにかく急がせる客のような』ものになってしまう。早い展開もいいけど、いい意味での緩急、読者の感じる物語の速度の管理が大事。これは私もまだうまく出来てるとは言いがたいんだけど、この作品読んで、こういうのもありだなと思ったのです。次回も楽しみ。
まさかの『鉄』な視点が私も暴走してしまうので注意しながら読んだ。
超能力カメラマン、鉄道事故を止めろ、って……あ、シリーズなのね、これ、と思うと、なるほど、確かにモチーフは前の作品から継承してるなと思う。継承しながら、車外と鉄道車内を乗客視点で描写しているのを楽しむ作品だと思う。
視点を揃えるというのもあるんだけど、それもまた浅い規範批評で、この作品の場合それをやっちゃうとムリが凄いのね。だからこの作品もまた、そういう味わい方向の追求をした作品だと思う。そういうところ、物語構造的に攻めてて、いい。
独特のその事故に近づいていく怖さ、それを回避するすれすれさが味の中心として楽しむ作品だし、その狙いが成功してる。
個人的に運転士さんはこういう場合、警笛鳴らして列車防護スイッチ押したり(他の列車が事故後に来ちゃったらさらに大事故になるからね)パンタグラフ下げたり(事故起きるとパンタグラフで架線切っちゃうから)とかもう一気に操作しなきゃいけないことがバタバタになっちゃうのね。だからまず運転士さんの足は常に警笛ペダル踏めるように、手はいつでも非常ブレーキかけられるようにしてる。あと、列車は最高速度で運転してても、踏切とかの異変を察知したら600メートルあれば止まれるように設計されてて、600メートルで止まれない場合は速度が制限される。あと、列車は簡単に脱線転覆しないように脱線ガードというものを線路に設置されてることもある。ダンプカーにぶつかってもそれを弾いてしまうほどの強度を持たされてる。事実、昔の名鉄パノラマカー(2階建て車で、2階運転席の前につきだした1階展望席にお客さんが乗る)は確か踏切で立ち往生したダンプカーに突っ込んでも、人的にはほぼ無事だったよなあ、とか、ほんといらん鉄道マニアな話をしちゃってすまん。
でもこういう話は『ありえない』と断定はできないし、主眼であるドラマそのものが良く出来ているので、いいのです。リアリティとリアルは違う。リアリティはあるので問題なし。
それより、これはさらにシリーズ化するのかな、と思うと楽しみはもっと増える。このキャラクターでこれからどういう危機をどう回避するか。システムとして物語がしっかりできているので、読んだ後の空想(妄想?)まで捗っちゃって楽しくなる。ほんと、素敵な作品です。
うぐぐ、物語作りとしての欲のなさが気になる。
多分、最愛の人の死に打ちひしがれるけど、それを受け止めて、そして徐々に回復していく、『受容』がモチーフの物語だと思う。
何を見ても失った人を思い出してしまう、というのは私個人も弟を失い、離婚で嫁さんを失った私は苦しくて死にそうになるほど身にしみてるせいか、なんだかどうにもそれが鮮やかにならないのがどうにももどかしい。
でも、私との作風の周波数の違い、好みの違いもあるだろうから、そこは私もグッと堪えるところでもあるし、ここの判断は他の読者にも委ねたいと思う。すごく難しいところでもある。そういう問題作でもあるので、読み手の力量を試す意味で、多くの人に読んで欲しいと思う。というからここまで語らざるを得なくなるのも狙いのうちなのかなという気がしてきた。
丁寧に書いているだけに、すごく私として気になる。これはいい意味での文学としての爪痕を残されちゃったかも。後から後から気になる。この作品をこうやって正当に評価できない私は、まだまだ修業が足りないなあと思ったのです。
レポートとしてとても貴重で面白い。まさかコンビニ弁当とかがパリで面白がられているとは。もともとあっちの芸術家は日本にすごく興味持ってるし、芸術教育も日本より独特らしいのね。そして私的にフランスって少子高齢化対策がすこし成功してるとも聞くので、それがほんとかなと思いつつなんだけど、それはそれとして、彼らの好奇心の旺盛さと自由さは学びたいところ。そういう彼らに日本の創作をいろいろ知ってもらえれば、とても嬉しい。日本独立作家同盟の可能性としても、こういうアプローチをしてくれるのはとても寄与するものと思う。
余計なことだけど、『のだめカンタービレ』とかは向こうでどう見られてました? あの作品にはフランスの日本アニメのオタクが出てくるんだよね。ほんとにあんな感じなんだろうか。だったらとても楽しいんだよね。『のだめ』がフランス編でフランス語覚えるのもフランス語訳されたアニメを見て、だもんね。
日本の日常って、世界の日常じゃない。私たちはいつの間にか、今の日本の日常を自動化して当たり前だと思ってるけど、全然当たり前じゃない。むしろSFの中を生きてるようなもんなのかも。それをフランス人は教えてくれてると思う。
文化の交流じゃない。交流こそ文化。ほんと、面白かった。
おおー。またいい表紙だ。すごく素敵。夜空に月とお団子。ああ、秋だもんねえ。
ごめん、少し血圧上がっちゃった。
でも、冷淡に「よくわかんない」とは言いたくない。私にもうできることは、このレビューぐらいだから。すごく小さいけど、私は本気で群雛に書く人をみんなとても愛してるの。冷淡に見る奴はいくらでもいる。多分群雛はそういう段階になってきてると思う。
群雛の目的は多分そこだったはず。参加だけが目的じゃない。売れることだけも目的じゃない。(3)同盟の存在意義を高めるためには、(1)作家の紹介をしなくちゃいけない。そのために作家を紹介するのも、ただこんな人いるよー、と紹介するにしても、そこに作品技術的な高みと向上がなければ、読者はついてこないし、作家も良くて冷たい揶揄、そのままだと無視しか受けられない。それじゃ意義が薄くなってしまう。
でも、ここまで私が書くほど、この号の群雛も、読んだ上で語りたい雑誌になってる。中でも幸田さんのはそういう意味で、いい意味で問題作で、すごく意義深く、価値があっていいと思う。
こう書いた上で白状するけど、私もこういうこと、唐木さんにいきなりガツーンと言われたのね。はじめて読んでもらった作品で。で、ぐぬぬ、と思って更に書いたの。がんばって書いたの。私なりに研究した。正直、私のそのころのを今見ると、致死量を超える酷さで、ドラマもヘタ、描写なんてないが如くだったと思う。
それに比べればずっとみんな、すでに完成度すごく高い。だから、改めて、私も好みとか作風の周波数の違いにとらわれないように気をつけなきゃな、と思う。
読んでてどれも、きっとこういうの好きな人はどっさりいるな、と思うし。読み物として幅が広いし、事実今回私の好みでないだけで、作風として、実際世の読書家にすごく支持されてる方向だな、ってものが多い。
読み物ってのは極端に嗜好品だから、好みに合わないとなかなか正当に評価するのは難しい。
だからこそ、これまで私が「オススメ!」っていってて、「えー、ガッカリ! まったく、米田ってぜんぜんセンスねーな!」と思った人がいたと思うので、そういう人は是非、この号を読んでみて欲しい。
ほんと、群雛とそこに集まる作家の幅の広さを感じられることは確実だから!
質はいいのに、私の狭い好みに合わなくて、このレビューで損してるかも、と、むしろ私が反省させられる。
もちろん、神楽坂らせんさんの『あいどる・とーく』は期待通りの出色の出来、秀逸ですばらしい。前評判に一点の偽りなし。これは間違いなく広く支持されると思う。
加えてそれに他の作品もそれぞれの持ち味が出ているので、それぞれにファンがつくと思う。そういう楽しみのある号です。
それに、毎号みんな同じカラーの作品が揃っちゃったら、それはそれで雑誌として危険な方向だもん。雑誌というものはそういう最適化をついやってしまいがちだけど、それをやると外したら復旧不能になる。そこで、いい意味での福袋性、サプライズ性をどこまでいっても持ってることが、雑誌としてすごく大事。
そういうところで、私の手に届かないほどに達しつつある群雛の真価がむしろよく出てる号かも。
いよいよ読書の秋。だからこそ、こういうたまに違う好みの物語を読むのも楽しいものです。
では掲載順に。
インターネットは鳴り止まないっ 香月啓佑(ゲストコラム)
うぐぐ、改ページの位置を気にして小説の本づくりをできるのは偉い作家先生と凄腕編集さんの組み合わせの時だけだよう……。大昔はそういう本作りをできたけどね。私でさえそうだった。でも、だんだん「メール添付で月曜までに上げといてね」で、ゲラが戻ってきて、訂正入れて、気づかないうちに本屋に並んで、なんとそのあとに見本刷りが届くという状態に。ブワッ(絵文字略)。京極夏彦先生とかはInDesignで組版まで自分でやってたという伝説あるし、講談社文芸第三(当時)の唐木厚さんなんかは目の前でうちの新書800ページの折り数と割付を全部暗算してた。目の前でザクザク「これ扉は左に揃えますね、折数でここが足りない分はここで貸して、あ、ここは4文字詰めればこっちがひっこむので……」って人間InDesignやってたもんね。あの頃は凄い猛者がいたけど、今はテキスト流し込みの時代だもんねえ。じゃあ電子書籍でいいじゃん、読みたくなったらその場で買えて読めて寝っ転がって仰向けでも読めるぜ、みたいな。
省みると、書籍の世界は、その良かった頃の伝説という貯金を、少量多点数出版という自転車操業でどんどん食いつぶしていって、その間に全体として、読者をけっこう失っているような気がするのね。それを取り戻すにはいい電子書籍を作るために頑張るしかないんだけどね。
本屋さん? 悲しいけど、私を育ててくれた個人経営の書店は、ほぼ全滅しちゃったよ。あるのはチェーン店という、POSレジで個人情報抜いて流用しまくる某T*UT*YAみたいなもんしかなくなるという。しかもそれが図書館までやってしまうんだから、もう紙の本は悲しい状態。オンデマンド出版にも食われるしかないけど、装丁も造本もデザインもこれからはオンデマンド化するしかないと思う。
あと、オープン原理主義だけど、これ、結局慎重にやらないとオープンハイイコトダ、って乱暴になっていってどんどん反知性主義になりかねないのでそこら辺要注意だよね。ハエがたかりそうなバイラルメディアと、そこに集って電凸と称して暇つぶしにゲームのように人を追い詰めて吊るそうとするバカども見てると、とても情報社会が便利さを担保とは思えない。結局、文明ってのは変化しても、便利さと不便さのバランスはかわんないんだよね。自動車の発明が自動車事故を発明しちゃって、その上で車輪の再発明したらその再発明で事故も発明しちゃうのよー。
と、オレオレ的につい読んでいると語りたくなるコラム。語るためにも読む価値あると思う。いい話の呼び水にもなってる。
オルガニゼイション5 猫。あるいは夏へのスフィア 波野發作
この著者頭いいわ。頭良すぎて暴走してるんだと思う。だから楽しめるかどうかは読者を選ぶと思う。でも、そういう文学はないと絶対にダメなんだよね。だって毛沢東語録じゃあるまいし、誰もが読むようなものをみんなが書かなくちゃいけないなんて、何そのファシズム、だと思うし。
ほんと、段落長っ。登場固有名詞多いっ。正直読みやすいとはいえない。それなりに頭のなかで物理メモリ割り当てて読まないとしんどい。
でも、そのしんどさを超えると、仕掛けが見えてくる。思えばこの著者の最初の頃の作品からこの傾向があった。02月のスラップスティックなスペオペ「ヴェニスンの商店」から始まって04月スラップスティック「ガッテンの箱娘」、07月スペオペ「十五商人漂流記」、08月メカもの「鋼鉄の羊」ときて最後にこの擬人化モノときたので、この人は書くものの守備範囲が結構広い。そして広い守備範囲で書くもので、とくに読者に媚びすぎないのもありようだと思うし、それもまたここまでくると、一つの風味なのでいいのだと思う。
この話、いろんなところをバッサリ削りまくったら、芯にはすごく温かみのある藤子F不二雄先生風味の秀逸なSFの芯が残ると思うんだけど、それはニワカで凡庸なドラえもんファンの誰かが書くでしょう。この人のオリジナリティはそんな浅いものではないと思う。むしろこの暴走風味が味わいだと思うのね。で、それこそ文学の風味だと思う。
あと、『タイムマシン』と『もしもボックス』は同じものだというのが私のオレオレ宇宙論『アメノミナカ』なので、すごくすっと読めた。私としてしんどく読んだはずなのにすっきりと読了しちゃうのも風味として面白い。
のこり香 神光寺かをり
この人の場合もまた損を少ししてる気がする。これ、固有名詞ちょっと使えば、すごくすっきりすると思う。でも、それをしちゃうと、この雰囲気、味わいは壊れてしまうのね。仕掛けだけ楽しむなら普通に固有名詞使っちゃっていいんだと思う。作中の固有名詞も作ってもいいはず。根拠はと言われちゃったら『え、民明書房の『**』で有名じゃないですか、やだなー』って言っちゃえばいい、ってズルを考えてしまう邪悪な私なんですけどね。
でも、それを『これじゃ規範批評だろがー!』と自分にツッコミを浴びせつつ読むと、味わいと仕掛けの楽しみ、そしてモチーフの良さがすごく出てくるの。
正直、初見の時は途中までの雰囲気にすっかり撹乱されて、全体の仕掛けに気づくのが遅れて『ええっ!』と読み返して、『……なるほど』と思うしかなかった。
で、ちがっても、おおー、と思わされる楽しさ、鮮やかさがしっかりある。納得の出来。
今思ったけど、この前半の舞台となる特急列車、自由席とラウンジの合造車となると、なんとなくモデルとなった特急はアレじゃないかなとか、となると行く先はアソコで、と思えてしまうので、うかつに固有名詞を出したらそれはそれでよくないと判断したのかな、と思わされてしまう。フィクションなんだけどね、ああ、あるかもなあと思わされる風味。うう、よく出来てます。案外ラウンジと自由席が一緒に1両の中にある特急って少ないんですよー(いらん鉄道マニアの詮索ですまん)。詰めていっちゃえば、もしかして:実は丸椅子じゃない? みたいな(ヒドスギル!)
でも、決してずれているわけではないのね。むしろシャープにモチーフが出てる、というか、独特の風味とモチーフの継承が生きていると思った。これも語りたくなる作品。
周波数が違っても、いいものはいい。というか、周波数の違いを超えていいと思わされるんだから、周波数合う人はどんだけ楽しく読めるだろうかと思うと、私のほうの好みの狭さのほうが残念になるという。それぐらいいい。
そして、ゆっくり読むと、あとからあとからじわじわと来る味がいい。エンディング、たしかに、「残り香」だよねえ、ほんと。この風味は周波数違ってても、私も納得するところ。昔の私の師匠の匂い、原稿用紙とタバコの匂いを思い出しちゃったよ。すごくカッコよくて素敵。
あいどる・とーく 神楽坂らせん(文)しんいち(イラスト)
ブラックらせんさん、というほど前宣伝しただけに、期待も大きかった。SNSを使った小説のプロモーションという社会実験だなーと思ってた。で、それで作品が『ズコー!』だったらとゾッとするけど、まあこの著者ならそれはないだろー、とおもったら、そのとおり、とても楽しく読めました。
ほんと、フォント1文字1文字がピチピチ跳ねるような文章の風味が良い。また仕掛け、ネタ、ギミックなんかもちゃんとあちこち先行作品かなーと思ったSFのネタをバンバンときっちり決めてくるのはさすが。SFのテクノロジー描写も書きすぎずに書き込んであって、とてもいい風味。
なるほどねえ。よく出来てる。惚れ惚れするほど。秀逸です。この字数でこの内容はみっちり作りこみ感のあるSFだし、アイドルというモチーフもSF的によく反映して書ききっている。うまい。とてもよい。エンディングもいい日本風味のSFの良さ。でもこういううまい話を思いついた瞬間って、私もそうだけど、『ぐへへ、思いついちゃった!』とすごくうれしくなるよね。その瞬間はやっぱりホワイトではなくブラックらせんさんなんだと思う。私もそういう時、『うひひ』と黒米田になっちゃうんだけどね。
アニメのいいキャラデザインの人が『キチク!』と仲間内で呼ばれてたりするのもそういう邪悪要素があるんだと思う。それはものづくりには必須なんですよ。
扉絵もとても良い。これも独特のキャラクターの跳ねてる感じが出てる。挿絵さんとしての読解力を遺憾なく発揮してると思う。素敵。
リアリストの苦悩(連載第2回) くろま
おおー、話がどんどん動き出したの感。前回は時代の空気を出して下地作りだったような。その下地があるからの味わいが、事件の動きに依存しない物語の独特の空気になってると思う。で、事件もしっかり物語をこれから動かしていく力を持ってると思うし。これ以上凄惨にするのはやっぱりキチクな黒米田の考えであって、全体のまとまり、作品の質としてはこれが最適解だと読み返すたびに考えぬかれてるなと思う。まさにスルメ、じゃなくてアタリメなこの号の感じを思わせられる。TVドラマ好きと言ってる作者の往年の昭和ドラマ風味がよく出てるなあとも。
読書の楽しみってのは、うっかりすると、早く先を読ませろ! と、『ストリップショーで先をとにかく急がせる客のような』ものになってしまう。早い展開もいいけど、いい意味での緩急、読者の感じる物語の速度の管理が大事。これは私もまだうまく出来てるとは言いがたいんだけど、この作品読んで、こういうのもありだなと思ったのです。次回も楽しみ。
奥羽根本線 新町踏切 きうり
まさかの『鉄』な視点が私も暴走してしまうので注意しながら読んだ。
超能力カメラマン、鉄道事故を止めろ、って……あ、シリーズなのね、これ、と思うと、なるほど、確かにモチーフは前の作品から継承してるなと思う。継承しながら、車外と鉄道車内を乗客視点で描写しているのを楽しむ作品だと思う。
視点を揃えるというのもあるんだけど、それもまた浅い規範批評で、この作品の場合それをやっちゃうとムリが凄いのね。だからこの作品もまた、そういう味わい方向の追求をした作品だと思う。そういうところ、物語構造的に攻めてて、いい。
独特のその事故に近づいていく怖さ、それを回避するすれすれさが味の中心として楽しむ作品だし、その狙いが成功してる。
個人的に運転士さんはこういう場合、警笛鳴らして列車防護スイッチ押したり(他の列車が事故後に来ちゃったらさらに大事故になるからね)パンタグラフ下げたり(事故起きるとパンタグラフで架線切っちゃうから)とかもう一気に操作しなきゃいけないことがバタバタになっちゃうのね。だからまず運転士さんの足は常に警笛ペダル踏めるように、手はいつでも非常ブレーキかけられるようにしてる。あと、列車は最高速度で運転してても、踏切とかの異変を察知したら600メートルあれば止まれるように設計されてて、600メートルで止まれない場合は速度が制限される。あと、列車は簡単に脱線転覆しないように脱線ガードというものを線路に設置されてることもある。ダンプカーにぶつかってもそれを弾いてしまうほどの強度を持たされてる。事実、昔の名鉄パノラマカー(2階建て車で、2階運転席の前につきだした1階展望席にお客さんが乗る)は確か踏切で立ち往生したダンプカーに突っ込んでも、人的にはほぼ無事だったよなあ、とか、ほんといらん鉄道マニアな話をしちゃってすまん。
でもこういう話は『ありえない』と断定はできないし、主眼であるドラマそのものが良く出来ているので、いいのです。リアリティとリアルは違う。リアリティはあるので問題なし。
それより、これはさらにシリーズ化するのかな、と思うと楽しみはもっと増える。このキャラクターでこれからどういう危機をどう回避するか。システムとして物語がしっかりできているので、読んだ後の空想(妄想?)まで捗っちゃって楽しくなる。ほんと、素敵な作品です。
夏のかけら 幸田玲
うぐぐ、物語作りとしての欲のなさが気になる。
多分、最愛の人の死に打ちひしがれるけど、それを受け止めて、そして徐々に回復していく、『受容』がモチーフの物語だと思う。
何を見ても失った人を思い出してしまう、というのは私個人も弟を失い、離婚で嫁さんを失った私は苦しくて死にそうになるほど身にしみてるせいか、なんだかどうにもそれが鮮やかにならないのがどうにももどかしい。
でも、私との作風の周波数の違い、好みの違いもあるだろうから、そこは私もグッと堪えるところでもあるし、ここの判断は他の読者にも委ねたいと思う。すごく難しいところでもある。そういう問題作でもあるので、読み手の力量を試す意味で、多くの人に読んで欲しいと思う。というからここまで語らざるを得なくなるのも狙いのうちなのかなという気がしてきた。
丁寧に書いているだけに、すごく私として気になる。これはいい意味での文学としての爪痕を残されちゃったかも。後から後から気になる。この作品をこうやって正当に評価できない私は、まだまだ修業が足りないなあと思ったのです。
実録! パリJapan EXPO 西野由季子
レポートとしてとても貴重で面白い。まさかコンビニ弁当とかがパリで面白がられているとは。もともとあっちの芸術家は日本にすごく興味持ってるし、芸術教育も日本より独特らしいのね。そして私的にフランスって少子高齢化対策がすこし成功してるとも聞くので、それがほんとかなと思いつつなんだけど、それはそれとして、彼らの好奇心の旺盛さと自由さは学びたいところ。そういう彼らに日本の創作をいろいろ知ってもらえれば、とても嬉しい。日本独立作家同盟の可能性としても、こういうアプローチをしてくれるのはとても寄与するものと思う。
余計なことだけど、『のだめカンタービレ』とかは向こうでどう見られてました? あの作品にはフランスの日本アニメのオタクが出てくるんだよね。ほんとにあんな感じなんだろうか。だったらとても楽しいんだよね。『のだめ』がフランス編でフランス語覚えるのもフランス語訳されたアニメを見て、だもんね。
日本の日常って、世界の日常じゃない。私たちはいつの間にか、今の日本の日常を自動化して当たり前だと思ってるけど、全然当たり前じゃない。むしろSFの中を生きてるようなもんなのかも。それをフランス人は教えてくれてると思う。
文化の交流じゃない。交流こそ文化。ほんと、面白かった。
表紙 天体の指先 神谷依緒
おおー。またいい表紙だ。すごく素敵。夜空に月とお団子。ああ、秋だもんねえ。
総括
ごめん、少し血圧上がっちゃった。
でも、冷淡に「よくわかんない」とは言いたくない。私にもうできることは、このレビューぐらいだから。すごく小さいけど、私は本気で群雛に書く人をみんなとても愛してるの。冷淡に見る奴はいくらでもいる。多分群雛はそういう段階になってきてると思う。
群雛の目的は多分そこだったはず。参加だけが目的じゃない。売れることだけも目的じゃない。(3)同盟の存在意義を高めるためには、(1)作家の紹介をしなくちゃいけない。そのために作家を紹介するのも、ただこんな人いるよー、と紹介するにしても、そこに作品技術的な高みと向上がなければ、読者はついてこないし、作家も良くて冷たい揶揄、そのままだと無視しか受けられない。それじゃ意義が薄くなってしまう。
でも、ここまで私が書くほど、この号の群雛も、読んだ上で語りたい雑誌になってる。中でも幸田さんのはそういう意味で、いい意味で問題作で、すごく意義深く、価値があっていいと思う。
こう書いた上で白状するけど、私もこういうこと、唐木さんにいきなりガツーンと言われたのね。はじめて読んでもらった作品で。で、ぐぬぬ、と思って更に書いたの。がんばって書いたの。私なりに研究した。正直、私のそのころのを今見ると、致死量を超える酷さで、ドラマもヘタ、描写なんてないが如くだったと思う。
それに比べればずっとみんな、すでに完成度すごく高い。だから、改めて、私も好みとか作風の周波数の違いにとらわれないように気をつけなきゃな、と思う。
読んでてどれも、きっとこういうの好きな人はどっさりいるな、と思うし。読み物として幅が広いし、事実今回私の好みでないだけで、作風として、実際世の読書家にすごく支持されてる方向だな、ってものが多い。
読み物ってのは極端に嗜好品だから、好みに合わないとなかなか正当に評価するのは難しい。
だからこそ、これまで私が「オススメ!」っていってて、「えー、ガッカリ! まったく、米田ってぜんぜんセンスねーな!」と思った人がいたと思うので、そういう人は是非、この号を読んでみて欲しい。
ほんと、群雛とそこに集まる作家の幅の広さを感じられることは確実だから!
質はいいのに、私の狭い好みに合わなくて、このレビューで損してるかも、と、むしろ私が反省させられる。
もちろん、神楽坂らせんさんの『あいどる・とーく』は期待通りの出色の出来、秀逸ですばらしい。前評判に一点の偽りなし。これは間違いなく広く支持されると思う。
加えてそれに他の作品もそれぞれの持ち味が出ているので、それぞれにファンがつくと思う。そういう楽しみのある号です。
それに、毎号みんな同じカラーの作品が揃っちゃったら、それはそれで雑誌として危険な方向だもん。雑誌というものはそういう最適化をついやってしまいがちだけど、それをやると外したら復旧不能になる。そこで、いい意味での福袋性、サプライズ性をどこまでいっても持ってることが、雑誌としてすごく大事。
そういうところで、私の手に届かないほどに達しつつある群雛の真価がむしろよく出てる号かも。
いよいよ読書の秋。だからこそ、こういうたまに違う好みの物語を読むのも楽しいものです。
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